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Artesano de Circulos Concentricos

舞台 毛皮のマリー

寺山ワールド満載、美輪明宏主演の舞台を観てきました。

昭和を代表する鬼才・寺山修司が、美輪明宏のために書いた伝説的名作1967年の初演以降、幾度となく上演され、なんといっても注目なのが前回の上演の時はあのミッチーが欣也役だったのですねぇ。その前はいしだ壱成。

物語は、半ズボンの美少年・欣也と暮らす、毛皮のマリーと呼ばれる中年の男娼を主人公に展開。閉じられた世界で、歪んだ形ながら欣也を母親のように可愛がるマリーだが、ある日謎の美少女が訪れ、欣也を外の世界へ誘い……。そして疲れ果てまた元の館に戻ってくるが。

退廃的に描かれたこの舞台一種独特の寺山ワールド一色。
一番に思ったことは、あの青森美術館で初めてみた寺山修司の世界。ポスターなどが飾ってあった部屋に入った瞬間、何か体に忍び寄る得体の知れない、目に見えない空気。。。。
あー、私何かに包み込まれていくんだ、縛られているんだといった錯覚。

寺山修司が青森出身ということが理解できる劇中の言葉や、数年前の青森一人旅行で悲しいまでに感じてしまった空気の重さ。(悪い意味でなく何ていうんだろうか、土俗的な洗練されていないっていえばいいか)
あの当時、何故か解らないけど怖くて怖くて真昼間から悲しくて涙がこぼれたねぇ。
私も田舎もんだけど、東京の水に染まってしまったか。(軽さや空虚。。。)

それでもまた行きたい。寺山に会いに。

三島由紀夫原作の黒蜥蜴と比較して感じたことは寺山修司は三島由紀夫よりも、より複雑であるということ。
ひねくれながらも文学と言う世界で一筋に優等生的に文章を書き連ねてきた三島、そう育ちのよさを感じずにはいられない上品なクラッシク音楽のような文章、それに対して、マルチな顔を持ち、自分の出生ですら歪めてしまう(例えば、書を捨てよ、町へ出ようでは自分の母親を娼婦であったごとくいってみたり、自分が孤児であるといってみたり・・・・)ほどに。とにかく人間の内面を抉り出す、どろっと。
新宿の裏通り・・・雨上がりの夜、一日中薄暗がりのその路地はじとじとと湿る心のように、雨が乾くことなく、革靴をピチャピチャと容赦なく湿らす。
誰も聴く事のない、流しのギターもちがタバコを斜めに銜え、自分のタバコの煙に顔半分を醜く歪めて、飲み屋の暖簾をほんの少し持ち上げて店の中を覗き込み、ちっとひとつ、舌打ちをする。赤や青のどぎついセルが貼られた妖しげな店・・・・んー、淫靡だ。

虚構と現実、どこに本当の世界があるのでしょうか?そう、既に彼はヴァーチャルな存在・人生だったのですよね。それを望んでいたのでしょうね。。。

文学の世界も舞台も、俳句も映画も勿論虚構の世界。でもね、私たちはその中にほんの少しの現実、リアリズムを求めてしまうことってないですか?
そうすることで共感し、運命共同体のごとくその舞台や映画に溶け込んでいくのですよね。

これは三島由紀夫にも通じるとNagieは思いますが、綺麗に着飾った貴婦人でも道端に立ち身を売る娼婦でも結局は同じ女なのです。根底に流れる物は変わらない。
そして究極的にいってしまえばそれは男性も同じで男も女もない。同じ人間。

そんなことを考えさせられた舞台でした。ちょっと寺山ワールドを深めよう。

来月はうって変わって。。。とても綺麗な世界。クラシックバレエ。ママさんも大好きで今から楽しみにしている、観劇の後の食事を。にひっ。





by gota-de-fericidad | 2009-04-13 22:32
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